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第33話 理玖の思い

Author: 釜瑪秋摩
last update Last Updated: 2025-08-14 09:10:58

 書斎で夜を明かした理玖は、外が明るくなったことに気づいてようやく顔を上げた。一睡もしていない目は赤く、疲労で霞んでいる。

「鈴凪……」

 彼女の名前を呟くと、胸が締め付けられた。さっきの会話を何度も思い返しても、もっと上手く説明できたのではないかという後悔ばかりが残る。

『本当の私を愛してくれる人は、いるのでしょうか』

 鈴凪の問いかけは、彼女自身に向けられたもののようだった。中庭に立つその姿は、まるで霧の中に立つ迷子のように、頼りなく見えた。

『一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか』

 あの時――理玖は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。間違いなく鈴凪を見ていた。ただ、百合の面影が浮かんでいたのも事実だ。

 その事実を、どう言葉にすれば良かったのか。それが分からない。

 自分の過去が、今の幸せを壊してしまう皮肉を感じていた。説明すればするほど、鈴凪を傷つけてしまう。この状況を、どう修復すればよいのか見当もつかなかった。

 二人の間に横たわる溝は、想像以上に深かった。

「もう、手遅れだろうか……」

 理玖がつぶやいた言葉は、朝の静寂の中に重く響いた。

 書斎を出ると、慌てた様子の華が駆け寄ってきた。

「旦那様、たった今、奥様がお屋敷を出ていかれました」

 華の言葉に理玖は愕然とした。あれからまだ数時間だというのに、まさか、こんなにも早く理玖から離れてしまうなどと、考えてもみなかった。

「そうか……」

「散歩に出ると仰っていま

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